平野 潤
生年月日: 1984年 (昭和59年8月15日生まれ)
出身 : 愛知県豊田市
有資格: 柔道整復師、はり師、きゅう師、 スポーツトレーナー、シューフィッター
趣味: スポーツ観戦、おいしいご飯・カフェ巡り
好きな食べ物: アイスクリーム、 豚肉料理 スポーツ歴:バレーボール、マラソン(海外大会参加経験あり)
研究活動:
1) 平野潤、伊藤譲、林和也、林弘典、煙山奨也、小玉京士朗:高濃度酸素浴が運動パフォーマンスに及ぼす影響. Japanese journal [of ] judo therapy 14 (3)236 2006-07-06
2) 平野潤、煙山奨也、中西盛一郎、伊藤譲、行田直人、林弘典、山崎立実、中村辰三、池内隆治:足関節のテーピングおよび装具が競技能力に及ぼす影響. Japanese journal [of] judo therapy 13(3)302 2004-12-30
3) 筒井健大、平野潤、伊藤譲、行田直人、中西盛一郎、林和也、小田原良誠、中村辰三、山崎立実、澤泰介:腰部通電刺激前後の歩行姿勢の変化について三次元動作解析装置による検討. Japanese journal[of]judo therapy. 13 (3)320 2004-12-30
4) 中西盛一郎、伊藤譲、平野潤、煙山奨也、林弘典、山崎立実、中村辰三、池内隆治:反復横跳び動作に対する足関節テーピングの影響. Japanese journal [of]judo therapy 13(3)249 2004-12-30
院長経歴
0歳 愛知県安城市の病院にて産声をあげる。
豊田市花園町屋敷の一軒家にて父の両親(祖父母)と同居。 平野家として初であったため非常に大事にされたようです。
3歳 星が丘幼稚園(豊田市中田町) 入園。
集団生活に慣れるため1年間バス通園。 当時のことはあまり覚えていませんが、 父母曰く、落ち着 いた子供だったそうです。
4歳: 花園幼稚園(豊田市花園町) 入園.
地元の幼稚園に入園。演劇などがんばっていて、 友達の演技が気に入らないと「ちゃんとやって!」 とダメだしをしていました記憶があります。
4歳:妹ができる。
お兄ちゃんとしてしっかりしなければと思うようになりますが、やや赤ちゃん返り。
6歳:花園幼稚園卒園・若園小学校入学。
このタイミングで豊田市中根町に引っ越し 。祖父とは別の住まいとなりました。 ゲームが好きで勉強よりゲームでした(苦笑)。 家族旅行にもかかわらず、旅行先までゲーム機を持参するゲーマーでした。親も心配になりましたが、 中高でバレーボールを始めるとバレーボールに没頭しはじめ、 自然とゲームから離れることができました。 父母がゲーム脳になってしまうのではないかと相当心配していたそうです。
12歳:若園小学校卒業・若園中学校入学
バレーボール部に入部。入ったとしては、入学当時から身長が160cm以上あり、 身長が高ければ活躍できるかなと思い入部。 実際はそんなに甘くないことを知りましたが、 スポーツによって感動すること、みんなでの目標達成する力を教えてもらう。
16歳: 若園中学卒業・愛知県立豊田高等学校(豊田市伊保町) 入学
豊田北高校が第一志望でしたが、 滑って第二希望に入学。 この当時、人生最大の挫折を味わいますが、今思うと経験していてよかったと思っています。 高校でもバレーボール部に入部。顧問の先生は、バレーボール経験が浅く教えることがあまりできなかったため、生徒でメニューを考 えていました。今思うと考えて、計画して練習するといった基礎(仕事する上でも基礎が)身についた3年間だったように思います。県大会ベスト16が最高位。20年経った今でもメンバーとは仲がよく、盆と正月は必ず集まっています。
このころから「スポーツは楽しいな。」「将来スポーツに関する仕事に就きたいな。」と思うようになります。その中でもスポーツトレーナーに興味を持ち、スポーツトレーナーとして働くには?と調べた結果、柔道整復師という資格があることを知り、国家資格ということもあり、 目指すこととなります。
18歳 : 愛知県立豊田高等学校卒業・明治国際医療大学保健医療学部柔道整復学科(旧明治鍼 灸大学短期大学部、京都府南丹市) 入学
はじめての一人暮らしで、親の偉大さを知ります。 待ってもご飯はでてこないし、洗濯物は溜まる一方... とても良い経験をしました。
学業では、専門学校が多い中で、私が入学した時点では全国初の大学でしたので、大学の強みである研究施設が豊富でした。講師や教授の先生方の研究をサポートしたり、活動のサポートをしたりとよい経験をさせて頂きました。とくに「動作解析」 「酸素カプセル」の研究に携わることが多かったため、今でも現場でこの分野の勉強した内容が役に立っています。 このまま講師や研究の道に進むこともありかと思いましたが、自分の手で直接患者様を楽にしてあげたいという思いが強かったので研究職は諦めました。それくらい当時の時間が充実したもので楽しかったのです。
20歳:pittsburgh 大学スポーツトレーナー学科研修旅行参加
スポーツトレーナーになりたい!そんな思いが強かったためスポーツ先進国であるアメリカで勉強したいという思いが強くありました。
何気にインターネットで検索してトレーナー研修ツアー募集とあったので、この機会は逃してはいけない!と思い、親に土下座して研修費30万を借りて参加することに(もちろん研修後にバイトして学生期間中に返済しました)。
いざ参加してみると早稲田大学、国際武道大学、順天堂大学などの関東の大学の学生さんが多く、とても刺激をもらいましたし、やっぱりアメリカは規模が半端ないなと感じました。 大学スポーツでもビジネスとしてしっかり成り立っているため機材からまで日本でいうプロ野球選手並みの待遇を受けていました。そのため、それをサポートするトレーナーもよい環境が整っていて、勉強するならアメリカだ! と思ったほどです。
21歳 柔整学部卒業 鍼灸学部編入学、 中安外科リハビリテーション科勤務
治療の幅をもっと増やしたい、強したいという思いが強かったため、 鍼灸学部に編入学することに。病気や痛みの原因は、基本的に痛いところ(局所)を治す西洋医学とは違い、隅々まで原因を追究し、身体全体を見ながら根本改善する東洋医学を勉強しました。
現在、とても注目されている分野ですし考え方も一通りの治療だけではなく、何通りも治療があり、その中でチョイスする勉強を学べたことは今の治療にもだいぶ活かされています。
前学科で、柔道整復の資格を取得したため、資格を早く活かしたかったため、授業がない時間帯にはクリニックのリハビリテーションで働いていました。
ケガをたくさん見て、リハビリの基礎を学べました。 レントゲンのポイントなども院長先生に教えてもらいながらレベルアップできたことは大きかったと思います。
24歳さくらリバース治療院就職
スポーツトレーナーの資格を目指したかったため、関西は地元愛知よりも学べる環境が多かったため、そのまま関西で就職しようと考えていました。
しかし、平野家の長男でもあるし親には学費を含めていろいろとお世話になったし、将来的に地元に戻り、親の近くに住みながらサポートした方がよいと考え、とりあえず地元ですることを決断しました。スポーツトレーナーとして仕事がしたかったのですが、 治療技術の幅を広げたいとも思っていました。 考えた末、治療の幅を増やして、治療院が休みの日を使ってトレーナー活動をしようと思い、 全国でも有名な治療院に就職しました。
37歳 : パパノエル鍼灸接骨院開院
前職場で6,000件/年の施術を任されるようにまでになりました。
治療技術だけでなく、責任者を経験、後援会活動、人事の仕事、イベント責任者など
人間力、経営力も身についた様々な経験を13年間させてもらいました。
今回、開業を地元でさせてもらうことになったのは、20年近くお世話になった地元に貢献し、皆様がより健康で豊かな生活を長くしてもらうためのサポート役になりたいと思い決断しました。